2018年7月29日日曜日

他者を自己ルールで否定する心理

例えばファッション(あるいはそれ以外のぼんやりした生活文化等)はルール(ここでは特殊な事情がない限り全体に適用されるべきものの意)であるという人からすれば、自分が思っているルールを否定されること・無視されることはそれを信じる自分を否定されるのとさほど変わらない。

そうした不安から自分を守るために、みんな自分と同じルールであることを希望し、あるいはそうだと思い込み、守らない人を糾弾する。

しかし実際そうしたものには明文化されたルールはほとんどなく、時代によって(ほんの10年かそこらで)の変化もあり、科学や歴史に照らせばむしろおかしいことをルールと信じてしまっていることすらある。文化が宗教的に一枚岩でなければさらにブレるだろう。


一方で、一定の人にとって、何かルールが決められていないと不安という心理は常にある。「法律の範囲内なら自由でよい」と言われても、さらなる具体的なルールの通りにしていることのほうが安心なのだ。細かなルールのおかげで、自由に対して付き纏う責任や、他者からの(無用な)外見判定をある程度逃れることもできる。何より自分で考えなくて良いし判断しなくて良いのだから、思考のコストパフォーマンスだけ考えれば得かもしれない。

しかし現実に、他者の自由を侵してまでファッションのようなものに明文化されたルールを定めるのは難しい。そして時代によって思いもよらぬ振れ幅があったり、民俗・地域史を真面目に追うことが面倒だからこそ、適当に仕入れた知識や身近な人からの根拠のない教えを全体のルールとして信奉してしまう(自己ルールの形成)。さらに説得力を補うために、自分に有利な情報をかき集めて勝手にくっつけてしまう(時にはそれ同士が矛盾していたとしても、形に残らない議論では相手の出方を見てどちらかを出せば良いのだからむしろ矛盾したものを取り揃えてしまう)。

もっともそんなものを押し付けられたところで、納得する人は少ない。だから揉める。


他者に何かを押し付ける時、「自分の不安」が根源にないだろうか。

自分の欲求のためだけに他者の自由を奪おうとしていないだろうか。

自分も同じ程度の理由で何かを否定されたときに受け入れられるだろうか。

自分が思い込んでいるルールやその有無について他者と議論する時、あるいはそれを単に他者に適用しようとする瞬間、常に心がけておきたいことだ。





じゃあどうしたら不安がなくなるのかって?

衣食住のような生活に必須のこと(いわば「不足」)以外の、精神的な不安の解消をどこまで追い求めても基本的にはなくならない。潰したところでまた新たな不安を探し出してしまうだけだ。結局はその心理自体と自分の中で戦い、「それはよく考えれば大したことではない」「追い求めてもきりがない」と気づくしかない。

自分の内側に根源があるのだと自覚できれば他者に無用の押し付けをせずに済むし、押し付けがましい他者の中に不安という原因があると理解できれば、理不尽な要求に安易に動かされずに済むのではないだろうか。



閲覧数の多い投稿